「砂糖の世界史」読書メモ3

「砂糖の世界史」(川北稔 岩波ジュニア新書 1996年)の読書メモ。

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第6章 「砂糖のあるところに、奴隷あり」

  • この章はこれまでの時代であった16・17世紀から18世紀に少し進んだことで、黒人の地位向上や世界で奴隷制度の廃止への動きによって、砂糖を取り巻く状況が少しずつ変化していくという話。
  • 糖蜜(モラセス)→砂糖生産の副産物で、製造過程で結晶化しなかった残りかす。高級な蜂蜜の代用品として使われる他、主にはラム酒として醸造され、重要な輸出品として拡大されていった。
  • 1773年にイギリス議会で糖蜜法(糖蜜条例)、その後に砂糖法(砂糖条例)が制定。主な目的は、フランス領の砂糖やラム酒などの砂糖関連製品を輸入させないため。
  • 一方で日本の砂糖・製糖の話。砂糖が最初に伝わったのは、中国の隋からと言われているが、本格的に伝わったのはポルトガル人が持ち込んだ金平糖などの菓子類。
  • 日本でのサトウキビの栽培と製糖は江戸時代頃から。島津藩(薩摩藩)が支配する奄美大島や琉球(沖縄)がいち早く成功したため、砂糖は藩の専売となった。砂糖の販売による財力強化が、明治維新における薩摩藩の活動を支えたと言われている。
  • 18世紀初めに、8代将軍徳川吉宗の推奨で、各藩でサトウキビの栽培実験が行われ、四国、中国、近畿などで広く栽培されるようになった。19世紀前半では讃岐や阿波などで和白糖(精白糖)と呼ばれる白糖が製造されるようになった。それまでは琉球などで作られる黒糖が主だった。
  • しかし、明治以降は外国産の砂糖の流入により、琉球を除く国内でのサトウキビ栽培と製糖がほぼ消滅してしまうが、讃岐や阿波で作られていた高級和白糖の「和三盆」は現在も特産品として残っている。

第7章 イギリス風の朝食と「お茶の休み」

  • この章は19世紀の、産業革命時代のイギリスの話がメイン。
  • 砂糖入り紅茶の文化は産業革命時も高カロリー食品として残っていた。現在(1996年出版時の記載)でもイギリス人は平均カロリーの15~20%を砂糖から摂取している。
  • 1970年代の統計でも、イギリスにおける砂糖の平均消費量は世界トップランクのアイルランドやオランダと並んで、年間一人当たり104ポンド(47kg)。

第8章 奴隷と砂糖をめぐる政治

  • この章は19世紀から20世紀にかけて、産業革命により農業から工業へとシフトしていった結果、奴隷制度も砂糖プランテーションなどの農業を保護する法律も廃止の動きへと向かっていくという話。
  • 砂糖の過保護な法律→外国産の砂糖にかけられていた関税も1844年には30%程度だったのが、1852年にはイギリス領の関税とほぼ同等に。安価な砂糖の供給を求める動き。
  • イギリスでは1807年には奴隷貿易の廃止、1833年にはイギリス領での奴隷制度の廃止となった。これにより、奴隷の安価な労働力によって支えられていた中南米の砂糖プランテーションも、インド、中国、インドネシア、日本などのアジア人の移民による契約労働制に切り替わっていった。
  • 世界的に奴隷貿易や奴隷制度の廃止は進んでいったが、砂糖生産の競争力が強かった国では奴隷制の廃止は遅かった。スペイン領キューバでは奴隷制は1880年まで残り、ブラジルでも遅くまで奴隷制は残っていた。

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